JUNK連続トークセッション『クレヨン王国への招待』レポート

2004年4月15日、ジュンク堂書店池袋本店にて行なわれた、JUNK連続トークセッションでの福永令三先生の講演内容をまとめたレポートです。 『クレヨン王国への招待』と題されていたトークでしたが、実際には、先生の半生と文学論、これからの展望について語られていました。


幼少期

兄二人姉一人の末っ子で、ご両親に期待をされていないと感じていらしたそうです。そのためか、少々頓狂な、目立ちたがる傾向があり、一番下はどこもそうだと思うと、夏目漱石家の末子を例に出してお話をされていました。
とりわけ、お父様には複雑な思いを抱かれていたようです。大学に進学する際、兄弟全員が公立に行くのは外聞が良くないので私立へ行くように言われたとか。ただ、父と自分は同じ干支の星回りで、晩年に運勢が盛り上がるという話を聞かされていたことは嬉しかったともおっしゃられていました。
また、ご家業の所為でいつも自宅に家族以外の人がいたそうで、将来一人でできる仕事をしようと思っていらしたそうです。

戦時中

鉄工所で働かれていたそうで、仕事の簡単な部署にまわされて暇なこともあり、サボりを目当てにした人達が集まる中で、自作のホラ話をするようになったそうです。それが評判になり、ご本人が思うより先にまわりから作家志望と噂されるようになったとか。

早稲田大学時代

在学当時は文芸論争が激しかったそうで、講堂に800人近い学生が集まって、文学について激しく論争をされていたそうです。すでに作家志望だった先生も当然参加されていたそうですが、その中で作品を募集したところ、応募があったのは先生が2作と別の方が2作、つまり合計4作品応募者は2名でした。書いて来なかった人たちが応募された4作品をよってたかって論議するのに呆れて、一人でがんばるしかないと決められたそうです。

マレーグマ

エッセイやインタビューでも語られているので、ご存知のファンも多いと思われるエピソードですね。
学生時代の一時期、東山動物園(名古屋)の半年定期を買って通っていらしたそうです。そんなある日出会った、好物らしい蒸かし芋に激しく涎を流すクマに、好きなものに対しては身体能力は最大限に高められるものだと気付き、どの分野にもそのことに涎を垂らしている人がいて、自分が好きなことを諦めて他の分野に行ったとしても、そういった人にはかなわないだろうということを思われたそうです。

文章修行

こちらもファンには既知のエピソード。作家になろうと決めた時、修行として一月原稿用紙200枚あまりの習作をされていたそうです。とにかく書き上げるのが先決で、一作につきひとつでも満足のできる箇所があれば良いという考えでひたすら書かれたとか。なお、この話の際、参考として習作とファンレターの山やU字のブロックをつなげたご自宅の水路、日頃歩かれる散歩道を撮った写真が、参加者にまわされて来ました。
「洛陽の紙価を高める」という言葉の語源となった西晋の詩人左思について触れられて、偶然書いた詩がいきなり売れたということだと思っていたが、実は姿形も悪く、10年引きこもって詩を完成させたという人だと知ったと語られていました。ご自身も同じようにひたすら修行して作家になったので、作家になりたいというなら、新人でいきなり売れたという人に聞いた方が興味深い話を聞けるのではとも。

デビュー小話

修行と投稿を続けて、『オール讀物』で新人賞をとられたころ、やっとご家族にも先生が作家になるかもしれないと思われるようになったそうで、お母様から呼び出しがあり、作家になるのなら、いやらしいことや身内を題材にしたような作品は書かないようにと諭されたそうです。
今でも意識せずそれに縛られているような気がするとおっしゃられていました。
現在に続く童話の書き手になったきっかけは、やはりモービル石油主催の児童文学賞の受賞のようです。当時としては破格の賞金と川端康成氏(卒論テーマにされる程の愛読者だったそうです)による選考に釣られて応募されたそうですが、新人発掘の名手と言われた川端氏に賞をいただいたということが、随分と自信や喜びとなったそうです。
以後、講談社の児童文学新人賞、毎日小学生/中学生新聞の連載童話と、各社でデビューされるものの、なかなか次の仕事に繋がらず、作家になることを一度諦められて塾経営の道へ。

王国の広がり

塾経営が順調となったころ、講談社児童文学新人賞を受賞した『クレヨン王国の十二か月』が青い鳥文庫で文庫化されることに。このことをきっかけに、近年亡くなられた、イトウさんという、当時講談社の編集をされていた方が「クレヨン王国」の続きを書いてくれと言ってこられたそうです。すでに本業となっていた塾経営を放り出し、続編を出したとしても売れるのかといぶかしむ先生に、イトウさんは絶対売りますと言われたのだとか。
その熱意に押され、シリーズを執筆されるようになったそうですが、当初は塾経営との二足わらじな生活だったそうです。

塾経営

塾の特色として、身近な動植物の名前くらいは言えるようにすることが目標と、自然の花を10種類並べて名前を当てるというテストをされていたそうです。このテストのため、バスと徒歩で随分と山を歩かれたとか。
文章を考えるのに適しているとされる三上(馬上・枕上・厠上。つまり馬の上、枕の上、トイレの中、だそうです。北宋の学者、欧陽脩による。)を挙げられて、塾経営のため、寝る時もトイレでも余裕がなかった当時、唯一山へ出かける際のバス(馬上ということのようです)でよく物語を練ったとおっしゃられていました。
こうして再デビュー後も続けられていた塾経営だったそうですが、謄写版を刷る際に体を痛めたり、毎年冬に子ども達の間で蔓延する風邪をうつされたりと、年齢的体力的に厳しくなってきたところで辞められたそうです。

近頃

最近気付かれたこととして、文章の賞味期限について述べられていました。もともと先生は物語世界を隅々まで考えられて書かれるタイプだったそうですが、何度も推敲を重ねていると考えた当初よりも書き上げた文章が古くなる(=賞味期限がある)ことに気付かれたそうです。当然、その古さは読者にも分かるため、何度も練り上げた物語よりも、書いているときにふいに出てきたような物語の方が受けが良いのだというお話をされていました。
また、近年は年齢の為、集中力が落ち、30分や一時間ほどですぐお茶を飲んだり、お菓子を食べたりと、他ごとをしてしまうことが多いのだとか。そのため、集中が続く程度の時間で短編を書いてはどうだろうと考えられているそうです。
川端さんの掌の小説のような、自分の自然好きなどを生かした自分にしか書けない短編(仮にということでスケッチ童話と呼ばれていました)で、とりあえず今年何本か書いて考えてみられるつもりだそうです。
今までもマイペースでやってきたけれど、修行20数年クレヨン王国20数年とやってきたので、これからは更に思うように書いていきたいとおっしゃられていました。

変わらないもの

先生がお住まいの熱海には、尾崎紅葉の小説『金色夜叉』の登場人物、貫一とお宮の銅像があるということに触れられて、銅像建設は地元のホテルが客寄せを狙っての計画だったことや、そもそも建設のきっかけとなった『金色夜叉』の再ブーム(作品発表時のブームからは随分と後だそうです)は同作品の映画化が関連しており、交通網の発展によって東京から熱海へ行きやすくなったことも少なからず関連しているのではないかとお話されていました。そして、『金色夜叉』は夏目漱石に「長く残る作品でない」といった批判をされていたりしたけれども、普遍のテーマ(女は目に見えない愛情よりダイアの方が好きである、など)を持っているから人気が出、現在も生き残る作品となったのだと考えておられるそうです。その他、普遍のテーマがある故に長生きしている作品例として『クリスマス・キャロル』『ジキルとハイド』などを挙げられていました。日本の文学では、どちらかというとこういったシンプルなテーマ・すじよりも描写を重要視しすぎるように思われるそうです。
先生ご自身もつい描写に力を込めてしまわれるそうですが、最近はテーマが重要だと考えておられるとか。毎回、テーマか描写か、どちらをとるのかをぐるぐると迷われているそうです。シンプルなテーマ・あらすじのみの短い作品を書きたいという一方で、やはり長編が良いと思うとも言われていました。
また、これらの例として岩波文庫で一番売れているらしいのが、ページの薄い『銀の匙』(中勘助)であることを挙げられていました。先生は『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』(共にドストエフスキー)辺りだと思っていたとか。

たった一篇の文章

「たった一文でも、それが素晴らしければ文学は生き残ったり、甦ったりする」ということで、近年改めて話題・人気となっている作家や詩人について語られていました。
日本初の童謡雑誌「赤い鳥」の投稿者で、残されたたった一篇の詩がきっかけとなって、紹介者が生まれ、ブームがおこった金子みすゝ゛、阪神が優勝したお陰で出身地に銅像が建設されることになった「六甲おろし」の作詞家、佐藤惣之助(ちなみに先生は生前の宮沢賢治を唯一評価した人として記憶なさっていたそうです)、生前不遇だったとされる宮沢賢治についても触れられていました。
そして、関連して「赤い鳥」創刊者の鈴木三重吉についても述べられていました。創刊の動機が、松井須磨子の「ゴンドラの歌」などの大人が歌う歌が、当時子供にまで流行していたため、子供が歌うに相応しい詩を届けたいということだったことや、成功の裏には童謡をレコードとして売ったことにあるのではと思われているなど。
三重吉本人は 夏目漱石の弟子だそうで、滅茶苦茶な人だったらしいと紹介されていました。漱石や周囲の人が書き残した様々な逸話があるそうです。
「赤い鳥」を始めとする、この時期の童謡(児童文学)雑誌は、東京中心の中央主義で、地方の人間だったことや方言を使った表現などを理由に宮沢賢治を取り上げることができなかったことなど、時代的に仕方が無いものの限界があったと考えていらっしゃるそうです。また、文学はそれだけでは心許ないところもあるが、他のメディア(映画やレコードなど)と連携すると、かなり人々の記憶に残っていくものでもあるとも語られていました。

参加者からの質問


[福永令三作品リスト]