文化のみち二葉館トークイベントレポート

2006年4月16日に名古屋市の文化のみち二葉館で行われた福永先生のトークイベントのレポートです。
メモなどが無い記憶によるものなので、カン違いや忘れも多いかと思いますが、ご容赦ください。


予報では名古屋は雨だったはずなのですが、晴天とはいかないものの、持っていった傘は使わずにすみました。
参加申込が当日先着順ということで、10時開場予定のところ、私が到着した9時15分ごろの時点で5・6人の参加希望者と思われる方たちが玄関先に並んでいました。
あとで聞いたお話によると、列が始まったのは8時45分ごろからだそうです。結果的に申込者全員が参加できたようですが、申込方法としては少し不親切だったのではと思います。
そして、開場30分ほど前に福永先生とご家族の方が到着。
そのまま裏口から入られるのかなと思っていたら、いきなり行列にあいさつをされ始めてびっくりしました。先生のお顔を知らなかった方は、もっとおどろかれたことでしょう…。
その後、少し時間を置いて整理券の配布となり、開場。整理券といっしょに先生の記念判子入りの挨拶状をいただきました。
会場となった部屋は一階の大広間でしたが、50席予定のところに80人が入っていたそうで、かなりぎゅう詰めになっていました。椅子ではなく広間へ延びる階段に座ったり、立ち見の方も何人か。ちなみに、私と実咲さんは入室が遅かったので階段組でした。

そして、いよいよイベント開始。
作品の朗読と先生と職員の方による対談の二本立てでした。
まずは、司会の方がご挨拶され、福永先生の資料寄贈に対する感謝状授与がありました。
(※私の記憶では感謝状授与が先だった気がするのですが、参加された他の方のレポートには朗読の後と書かれているので、記憶違いかもしれません。)
朗読を担当されたのは、加藤万里子さんというボランティアの方。劇団に所属されている方だそうです。
朗読されたのは、詩画集1・2から『12か月』の詩とクレヨン王国国歌、『十二か月』の冒頭1章分でした。
詩については、自分でもたまに音読したりするため、感心して聞きつつも正直リズムの違いなどの勝手な違和感を感じてしまったのですが、『十二か月』は素直に楽しませていただき、できることなら全編聞きたかったです。
対談は、聞き手の方が質問をしてはそのことについて先生が語られるというインタビューのような形式でした。対談の内容は下記の通り。

■少年時代
白壁に住まれていた当時のお話。
二葉館の持ち主貞奴のお孫さんにあたる方と同級生だったとか。
その当時はとても無口で大人しいお嬢さんだと思っていらしたそうですが、今回のイベントにあたりご挨拶をと連絡をとったところ、随分と闊達におしゃべりされる方になっていたそうで、女の人は変わるものだと笑われていました。
その他には、日がな近所を自転車で駆け回っていらしたとか、新聞小説が大好きで、朝、早起きして新聞を外灯の明りで読み、また寝ていたといったお馴染みのエピソードを。新聞小説では、柳生十兵衛や水戸黄門などの口演がお好きだったとか。
この頃の、虫や花などの色の鮮やかさを未だに美しいものとして印象的に覚えていらっしゃるそうで、最近読まれた眼科医のエッセイに、視力は7歳までかかってできあがるとあったけれども、確かにこのころまでに見たものの美しさは本当に特別なものだと思うと語られていました。
また、「赤とんぼ」の歌を作られた三木露風さんが、「ふるさと」というのは子供時代のことと書かれているそうで、そういう意味では、誰でもみんなふるさとを持っていると考えていらっしゃるそうです。

■作家への道のり
終戦後、早稲田大学に入学された先生ですが、文学仲間はいらない、一人で書き続けるんだと決心にいたった出来事が。
大隈講堂に集まって文学論を戦わせていた400人の学生の中で、一ヶ月の締め切りで作品を出すはずだったのに、実際に書いてきたのが先生ともう一人の方の2作品ずつしかなかったそうです。
そして、早稲田出身者で当時流行の作家だった丹羽文雄さんが、原稿を長持二つ分は書かなければ作家になれないと書かれていたのを知って、すでにそれを越える勢いで習作を書かれていた先生は、それなら自分でもなれるかもと思われたとか。
ただ、やはり迷いもお持ちだったようで、通っていた東山動物園で見た、大好きなふかし芋によだれを流すマレーグマに感銘を受けて、好きなことをやろうと決心されたと語られていました。
動物園の職員になろうかとも考えていた動物好きと、定期に対する憧れ(中学生時代、遠方から定期で通う同級生達がうらやましかったそうです)から動物園の定期パスを購入していたとのお話も。本当は園に返しているはずだった定期券(昭和27年期限)の実物が、会場で回覧されていました。
その後、作家になろうとあれこれ新人賞に応募を繰り返されたそうですが、賞はもらえても次への依頼が来ない毎日だったそう。
新聞社のライターのようなお仕事もされていたようで、いくつもペンネームを替えて一面全部福永先生が担当なんてこともあったとか。
とはいうものの、次の企画次の企画と任されるものの、お給料はもらえず終いということでこちらもお金にはならなかったようです。
そんな訳で、諸々の事情により塾の経営を始められたそうですが、この経験が頭にあったお陰で、当初は塾生の半分から月謝が払われれば良しと思われていたそうです。ところが、塾生全員からきちんとお金が集まったので、世の中の人は何てちゃんとお金を払うものかと感激されたとのお話。

■王国の誕生
王国の生まれるきっかけ。
エッセイなどでも語られていますが、そもそもはモービル石油が募集した児童文学賞がはじまりだったそうです。
当時としては破格の賞金と、審査員が川端康成さんということで応募されたそうなのですが、受賞は川端さんの鶴の一声による決定だったらしいとのこと。やっぱり、同じような地位の人が審査に集まると、なかなか決まらずに無難な作品が受賞してしまうし、誰かが代表で決めるような形式の審査の方が、飛び出た作品が出るのではないかと思うと話されていました。
そして、受賞の賞金を何に使うか聞かれた時に、うっかり某住宅会社の株を買うと答えてしまい、審査員のお一人にこの人だけには受賞させたくなかったと言われてしまったそうです。児童文学を書くような人が、株だ何だとお金儲けにあくせくするものじゃないと思われたのだろうとのことでした。
モービルに応募された作品(「十二色のクレヨン」)は、捨てられてしまう前夜にクレヨンたちが絵を書き残すというお話。そこから枚数を越えてふくらんだのが、講談社の児童文学新人賞に応募された『クレヨン王国の十二か月』だったそうです。
ちなみに、クレヨン王国発想のきっかけとなったのは何と、昭和30年代頃に数多く売られていたクレヨン「王様クレヨン」。24色入りに金と銀のクレヨンがついていることから、金が王様で…と想像されていったそうです。
とはいえ、単行本は1作でストップ。「クレヨン王国」がシリーズとなるのは、1980年発行の青い鳥文庫版の売上に驚いたある編集さん(先生曰く「口の上手い人」だったそう)が、先生を説得された結果、出版された『クレヨン王国のパトロール隊長』から。
3作目の『クレヨン王国の花ウサギ』が、先に青い鳥文庫に収録されているために間違えやすいですが、パトロール隊長が第2作目なのです。

■執筆姿勢
先生のお子さん達の子供時代、終戦記念日や慰霊といった行事の多い夏休みの有り様があまりに暗そうで、日本の子供はなんて不幸なんだろうと、子供たちを楽しませようという意気込みでシリーズを書かれ続けていたそうです。
すぐれた物語を書こうとするのではなくて、一文でも満足できる文を書ければよいと書き続けること。読者との交流がきちんとできていること。このふたつが出来ていれば良いと語られていました。
読者の手紙には、必ず返事を返して(あまり変な人はそのままだそうですが)、手紙も全部保管されているそうです。
クレヨン王国が受けてきたのは、金色夜叉にあるようないつの時代でも変わらない部分として、自然破壊に対するメッセージがあるからではないかと考えているとも話されていました。
現在は、毎日朝2時3時に起きて川端康成さんの掌編小説のような短い作品を書くのが日課だそうです。
夏目漱石が言及しているIdea論について触れられて、アイディアと描写の両輪を持って、どちらかが絶えればまた片方ということで、今はアイディアを重視してひたすらに書かれているとも。
地元にはかつての教え子が大勢いるので、彼らが自慢できるような作家になりたいと語られていました。

最後に新刊紹介や質問コーナーがあったようですが、このあたりは記憶に自信がないので割愛させていただきます。好きな児童文学のお話でチャペックやケストナーを挙げられていたようです。子供と大人が対決するものとしてではなく、きちんと大人が良い人に書かれているということで評価されているそう。

対談後は、二葉館の館長さんとファンサイトの「からふる」さん企画(実は工作員でした/笑)による2組の花束贈呈でイベント終了。
その後、私たちを含めた何人かのファンが、退場されて控え室に移られた福永先生に差入れや写真のお願いをしたのですが、快く応じてくださいました。
素敵で貴重な一日でした。


[福永令三作品リスト]